第7章 例えば、現代の日本でも起こっているかもしれないバベルの塔
バベルの塔のようなことは、ひょっとしたらそこいら中で起こっているのかもしれない。
要は、支配者層が土民の力を抑えるようにするのである。
今、おそらく、この世界の神々というか支配者のグループは英語を話す人が多いのではないかと思うのである。
また、彼らはキリスト教を信奉している者が多いと思われる。
キリスト教は言葉の威力、というものを非常に重く見ているようだ。
新約聖書 ヨハネ伝福音書は「初めに 言葉(ロゴス)あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という有名な文章で始まり、続けて、その言葉が肉体となりイエス・キリストになった、ということが書かれてある。
言葉とは言うなれば、「魂」なのである。
さて、日本人の英語力、語学力に関して悲観的な論調が多いがそうだろうか。
江戸末期に、蘭学が盛んになり、薩摩藩、佐賀藩では、水力発電、反射炉などが作られた。これはあくまでも洋書を読んでこしらえたのである。向こうから技術者を招聘したわけではない。洋書を読むにも辞典も文法書も碌なものはなかった。それでも苦心惨憺して本を読み、反射炉等を作ったのである。
このようなことができたのは世界で、日本人しかいないのである。この語学力は卓越したものと言えるのではないだろうか。
その語学力を支えたのは、長いこと漢籍を読むことで養われたのである。
世界の支配者層が日本人の語学力を弱体化しようと思ったらどのような策を用いるだろうか。
先の章で、学校教育から英語を除く、というやり方もある。しかし、現在ではそれは不可能だ。あまりにも弊害があることが誰の目にも明らかだからである。
ならばどうするか。
現代、日本人の語学力の弱さが殊更言われた来た。読み書きはできるが、話す、聞く、会話ができない、と仰る。TOEICでもアジア諸国で最低水準とか。
勢い、最近、話す、聞く、の英語会話がやたら重要視され、文法の軽視、蔑視が行われている。
小学3年から英語を授業で行うことになったが、文法は教えずに、遊びのような英語教育をするという。文法はあえて教えない、と。冠詞も必要なければ、三単現のsも要らない、という勢いである。そのようなことを気にせずにとにかく英語で遊べ、というノリだそうだ。そう、英語にはノリが大事だと言うのである。
あえて問う。これで英語ができるようになるのだろうか。
出来るようには決してならないと断言する。
英語の勉強とは、つまるところ、日本語と英語の置き換えである。故にその法則である英文法がもっとも要である。
その要がない。これでは英語が出来るようにはならないう。
それを敢えてやらない、と強調するのは、神々による日本人の英語力破壊工作、バベルの塔かもしれない、と私は考えるがどうであろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿